- はじめに
本稿ではオタク が社会問題化するきっかけとなったビデオテープを「コレクション」する行為に着目する
ビデオテープをコレクションする営みは、80 年代にオタクと呼ばれることになる人々の中 で最も日常的な行為である。それと同時にビデオデッキの普及率は爆発的に増加しており、 ビデオはその他の多くの人々にとっても、日常的に使用するメディアとなっていた。そして、 オタクが社会問題化するきっかけとされる連続幼女殺害事件はまさに、この複数の水準での 行為の意味づけが交錯する場面であったといえる - 本稿ではこの二つの
文脈性を、1989 年のビデオというメディアが持つメディア史的な条件におけるビデオテープ
のコレクションに関するそれぞれのアクターの意味づけという観点から考える。
(1)マスメ ディアの語りがなされる前提として、一般層にとってビデオがどのようなものとされていた のかと、
(2)批評的言論が宮﨑勤を「真のオタク」ではないとする言論の根拠として持ち出 したことがファン集団内でどのような文脈を持っていたのかを事件をめぐる言説が成立する 文脈として本稿では検討していく。 - 「オタクの代表」の宮﨑勤
- 「証拠」としてのビデオ報道
証拠としてのビデオ報道のされ方は、2 通り存在する。それはビデオを事件の客観的な証 拠と事件の動機としてとりあげる報道である。
ここでは宮﨑のビデオテープが未整理であったために、目星をつけた捜索ができなかった ことが指摘されている。このことは一見些細なことに見えるかもしれないが重要な意味を持 つ。詳しくは後に検討するが、宮﨑がオタクであるのか否かという論点が浮上した際に、ビ デオテープが未整理であることが問題として取り上げられたからである。 - 宮﨑勤との切断操作とその範囲
前述のように世代への結びつけがなされる一方で、6,000 本というビデオテープとオタクと いう言葉が結びついていたことがわかる。さらに、「他の映像メディアにのめり込み」、「虚実 の境目がわからなくなった」と、ほぼ上記の世代全体の拡張と同様のレトリックで語られつ つも、「彼ら」という形で特定の集団を想定した議論が展開されている。この曖昧なオタクの 使われ方を検討するには、従来問われてきたオタクというカテゴリーになぜ負のまなざしが 注がれたかではなく、そもそもビデオというメディアになぜ負のまなざしが注がれたのかと いうビデオの社会的配置をめぐる問いをひとまず検討すべきである。 - ビデオの 1989 年における社会的配置と有徴性
- 家庭に導入されても、多くの家庭ではそのメディアをうまく使いこなせず、テレビを視 聴できないときに録画をする等単純な操作のみが行われた可能性がある 12。こうしたただ録 画だけをする層から見たときに、ビデオをコマ送り・編集したり、「コレクショ ン」したりするような消費は、珍しいことに映った 13。それが特定の集団を奇異なものとし て結びつけるまなざしへと接続する
- この時点でのビデオはカラーテレビに比して圧倒的に有徴なメディアだったのである。によると、世界を自分のお気に入りの世界にカスタマイズするのが、パーソナル な文化の条件である。これは同時に大衆向けを一律に消費するような世界とは異なるもので ある。ビデオはテレビをパーソナル化するメディアであったが、まさに 89 年のビデオをめ ぐる言説空間はそうした「一部のものだけがパーソナルな消費を行うこと」と「社会全体が パーソナルな消費を行うこと」の問題が混在するような場であった。宮﨑勤を「オタクの代 表」として語り、ビデオとオタクを結びつける文脈はパーソナル化の一般化への過渡期とし て存在したのだ。このように特定の集団に結びつけられる一方で若者全般にも結びつくよう な言論としてビデオに関する言論は存在した。ただ、オタクというカテゴリーに事件が結び つけられることへの危惧が語られるようにもなる
- 「真のオタク」ではない宮﨑勤
マスメディアが語る言論との差異化を意識しつつ、それを具体的に実現するための戦略の 一つとして、『M の世代』における大塚の語りがある。『M の世代』は、大塚の「二六歳のおた く青年の主張を代弁したところで何の意味もないかもしれないが、彼の生きてきた不毛とぼ くが生きてきた不毛がつながっているとわかった以上、そうする他にないではないか」という発言をもとに作られた書籍である。
「真のおたく」なるものを想定して、その「真のおたく」のふりをしている、すがっている という表現によって、M 君との距離感を確認している 。「おたくみたいな」疑似共同体に入 れないものをどうするかという論点で対談は進んでいくことになるが 、重要なのはここで 一度オタクという集団と宮﨑勤との関連を切断しようとしていることである。 - 変容するコレクションの意味論
- コレクションにおける数という意味
本章では、そうした当時のビデオ使用の様 子を多く観察できるアニメ雑誌上で 80 年代を通じ、ビデオテープをコレクションすることの 意味がどのように形成・変容していったかを見る - コレクションをめぐる二つの争点
ただ本数を持っている以上の、質をめぐる論争が起こる。「三倍で録画してい た」作品を、標準で取り直すような拘りが現われる。そして、このコレクションの質の問題 が前面に出る際には常に二つのことが大きな論点とされていた。「β か VHS か」という機種 をめぐる軸と、「VHS 標準か VHS 三倍速か」という録画方法をめぐる軸の二軸である。 - 節約と質の拮抗
標準か三倍かということをめぐる論理をより詳細に見て行く。そこで問題化していたのは、 「よりよい映像を見る」か「よりコストを節約するのか」という 2 つの論理の対立であった。
宮﨑勤が「オタクではない」ことの根拠として、様々な映像が一本のビ デオテープに入れてあることや、標準か三倍速かに関するこだわりがほとんど見られなかっ たこと、ビデオテープが未整理であったことが問題化されていた。だが、元来これは「オタ クであるかどうか」が峻別できる卓越性を表示するような指標ではなかったのである。では、 それが卓越の指標として記述されたことの意味はどのようにとらえればいいのか。 - こだわりの変容
そうした所有だけによる卓越ではない指標がひとまずは目指されることになる。こうした 従来的な卓越の根拠に対して、新たな根拠として連続幼女殺害事件の際に批評家によって持 ちだされたのが、標準か三倍速かという枠組みと録画の効率化をどのようにしているのかと いったこれまで節約の技法とされてきた問題である。また、一本のビデオテープには同じ作 品や少なくとも同じジャンルに絞って録画するといった実践が行われていないことも宮﨑勤 が「真のオタクではない」根拠として用いられた。前述したようにビデオテープの価格が下 がったこともあり、こうした録画の技法等は、実用的な意味がそれほどなくなっていったと 推測される。情報の詰め込み方等の整理の仕方が、実用的なものではなく、長くそうした習 慣を持ってきたという卓越の原理として持ち出され、宮﨑がオタク的でないものとして位置 付けることの根拠の資源として用いられたのである。ここで持ち出されたのはむしろ、これ まで節約の原理が主であったものからかろうじて卓越性を発明していく実践であったといえ る。そして、それがマスメディアとの差異化を志向しつつ「真のオタク」と宮﨑勤の差異と して切断操作を行う語りを可能にしていた。 - 結論——オタクが語られ出す論理
本稿で明らかにしたことは、オタクというカテゴリー全体を説明するものではないが、オ タクをめぐる社会問題化の起点を考えるうえでは重要な視点である。宮﨑を「オタクの代表」 とするのも「真のオタクではない」として語ることも切断操作であるといってよい。問題は どのような切断操作かであり、それがどのような文脈によって生じたかである。
覺得這篇文章想要討論什麼?
討論大塚在宮﨑議題上進行的切割戰略,以怎樣的角度切開宮﨑與オタク的距離,並探究這樣的切割論點在那個時代何以成立
我覺得這篇文章有哪些重點?或是我的心得?
從大塚的言論帶到80年代的錄影帶史,我覺得為整個オタク的討論加深也加廣方向,尤其是那些雜誌的運用,也許帶個オタク的討論平台這樣的研究(今天的5CH、PTT)也許可以,從這樣的交流來探究オタク80年代史。
從大塚的言論帶到80年代的錄影帶史,我覺得為整個オタク的討論加深也加廣方向,尤其是那些雜誌的運用,也許帶個オタク的討論平台這樣的研究(今天的5CH、PTT)也許可以,從這樣的交流來探究オタク80年代史。
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