- 問題提起
「空気系」と名指されたそれらは、大きな事件や出来事が特に起きるわけではなく、登場人物たちの何気ない日常を描いている点が特徴的な傾向とされ、そうした作品群の代表として『けいおん1』があるという。
物語を自由に解釈した私たちが、その解釈の後に求められるのは、様々な解釈の間に見いだされる葛藤をつぶさに観察し、その葛藤を通じて自らの価値観を再構築することなのだ - 「物語性の希薄さ」、「男性不在」による性的想像力の駆動-先行論の整理
- 空気系
- 文芸批評家の坂上秋成さんは「時間が流れない、女の子だけの空間。この『楽園』が終わらないで欲しいと見ている側は願っていて、ドラマチックな物語はいらない」と位置づける。
- 四つのコマによって一の最小単位のエピソードが構成され、そのエピソードが連続していくことで、読者によって物語世界が想像構築されていくことになる。こうした原作(マンガの表現形式が、アニメの「物語性の希薄さ」を規定していくのだという
- 男性不在
- 川(氷川竜介)は、『けいおん!』の「男性不在」を、男性視聴者にとっての「敵」の不在として捉えている。視聴者(男性視聴者)にとって男性キャラとは、自分が好きな女性キャラ(「俺の嫁」)と恋仲になりうる存在であるという。そのような男性キャラが排除されることで、恋愛の物語(コンフリクト)もまた排除されることになり、視聴者(男性視聴者)は女性キャラとの関係に集中できることになるのだという。
- 少女を「所有」しょうとするまなざしに晒されるものとして少女が対象化されているという意味で、宇野は「空気系」作晶は「ポルノグラフィ」であることを明言してもいる。しかしその「空気系」をめぐる「所有の快楽」は、男性自身のアイデンティティ不安を解消するための女性「所有」とは異なり、肯定しうるものなのだ。「何かのために少女を所有するのではなく、少女を所有すること自体が目的であり、快楽なのだ」そのような「快楽」は、「(性暴力的に確保されるマッチョな)ロマンティシズム」を回避しえているという一点で肯定されるべきもの(厳密に言えば「まだマシなもの」)となるのだ、宇野にとっては。
- 「空気系」という解釈からの逸脱一『けいおん!』分析
- 物語性の希薄さ
新しいものへの変化、という主題はきわめて時間的なものである。そう、『けいおん1』は時間をめぐる物語である、と捉えることができるのだ。 - プロデューサーである中山佳久
『けいおん!』は一見すると、一般的な意味での「物語」が発生していないように見えるかもしれない。しかし、現実の中高生の生活を考えてみると、彼らにも自分たちの生きている世界や空間があり、それぞれが一生懸命に生きている
そして中山氏は「『けいおん』を観て、"何も事件が起きない”と言う人たちは、作品を短絡的に観ているだけなのではないか」と反論する - 無時間性
『けいおん!』ファンの間でも人気が高いと思われるこの場面が物語るのは、もう今のような日常が訪れることは決してないのだということを唯たちが自覚しているという、そのことである。自分たちの声問には「限り」がある、高校を卒業しても四人はこれからもずっと一緒かもしれないが、高校生としてのライブはもうこれが最後なんだ、梓を入れた五人でのライブはもうこれが最後なんだ、という時間の有限性、そして有限であるからこそ、今のこの時間・この関係がかけがえのない価値を持っていることを感じ入るのだ。 - 男性の排除
女の子を性的に捉えうる男性視聴者の視線は、『けいおん!』の外部からのみ放射されるのではなく、『けいおん』の内部において何者かによって予め共有されてるのではないか。その「何者か」として注目したいのが、「さわちゃん」こと山中さわ子先生である。
こうした視線の質に注目するとき、物語世界の内部に設置されているこのさわちゃんの視線が、ある特定の男性視聴者の視線を回収しうるということが言えるのではないか。女性登場人物が、男性(視聴者)の共有しうる性的なまなざしを共有するということもあるのではないか。そうした観点から言えば、『けいおん!』から男性が排除されているということも単純には言えないということになろう。 - まとめ
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挑戰宇野常寛對於けいおん的評價
我覺得這篇文章有哪些重點?或是我的心得?
我覺得空氣系不太能算是這篇的主題,因為那是宇野常寛評論KON時,給他掛上的名詞,然後作者針對那個名詞蘊含的意義進行挑戰
雖然我個人是滿期待一個完整的空氣番的理論建構
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