- 序論
- オタクという言葉の歴史と変遷
- 「オタク」とは
「オタク」という言葉は、当時 23 歳だったエッセイスト、中森明夫氏が 1983 年 6 月か ら 1983 年 12 月までの間に、成人向け漫画雑誌『漫画ブリッコ』に連載した「『おたく』の 研究」の中で紹介され、一般化したものとされている。 - オタクという言葉の定着
1989 年 8 月、宮崎事件でオタクという語は広く一般的に知られるようになる。
オタクという言葉が持っていた、若者に必要なモラトリアムというべきロマンティシ ズムは一気に色あせ、潜在的色情殺人鬼と同義語になり、己の欲望を満たすためにはどん な犯罪も平気で犯す者とされるようになったのである。これが第二のオタク排斥の波であ る。
結局オタクは日本語として定着すべく生ま れた語のようであり、後にはメディアも当事者たちも、この語をごまかして避けたり、よ り肯定的な語にすり替える作業をやめてしまった。そこで、言葉をイメージアップさせる ための次なる戦略は、何であれマニアックな趣味を持つ者全員にこの語を割り当ててしま うことであった。「アニメオタク」「SF オタク」「鉄道オタク」「コミックオタク」「芸能人 オタク」「カメラオタク」さらには「健康オタク」など様々なジャンルで深い造詣と創造力 を持ち、それを生甲斐としている者を「オタク」としたのだ。そうした中で、ネガティブ イメージを払拭するために「オタク趣味」を自らアピールする芸能人、文化人も現れ、徐々 に差別的用語から、主にインドア志向な趣味に精通する自分をアピールするキーワードに 変化していったのである。 - オタクの空間感覚とオウム真理教との関連
このようにオタクという言葉が一般化していくなかで、1995 年 3 月オウム真理教による 地下鉄サリン事件 3 が起こった
オウム真理教が所有する建築物は「サティアン」と呼ばれた。それらはデザインがほと んど施されず、工場や倉庫に近い外観を呈していたという点において、宗教建築のイメー ジから大きく逸脱するものであった。創価学会の大本堂などをはじめとする様々な新興宗 教の聖堂と比較するとオウム真理教の聖堂の特異さが理解できる。サティアンには圧倒的 にデザインが欠如しているのである。サティアンにおけるデザインの欠落を社会の情報化 と関連づける発言が当時多くなされた。それは、情報空間への人々の没入によってより現実の形態、空間、生活に対する感覚的価値が下落し、人々が建築の拠り所ともいえるそれ らに無関心になるということである。
オウム真理教は建築以外のものには徹底してデザインを施していた。信者た ちの制服、布教用アニメにおける教祖や幹部たちを模したキャラクター、選挙活動におけ る女性信者の舞やヌイグルミを動員してのパフォーマンス、黄昏を背景に瞑想する教祖の 映像など、その表現は建築以外の分野では多岐にわたっている。ここにオウム真理教とオ タクの空間感覚の傾向に対する関連性が強く現れ、これを証しているという側面に、サテ ィアンの重要性がある。 - オウム真理教のオタク性
日本の多くの若者、特にオタクのほとんどが心の裡に秘めている迫害のコンプレックス に共鳴させ、オタク世代の不満を読み取った麻原や教団幹部は、布教にアニメや漫画、ヒーローを取り入れて、彼らの社会への不満を自分たちのために利用しようとしたのである。 教団におけるオタク文化の影響は確固たるもので、若者問題を専門にしているエッセイス ト、大塚英治は、オウム信者を「オタクの連合赤軍」と呼んだ。これらが第三のオタクバ ッシングの波であった。 - 現在のオタクとは
オタクという言葉から想起される人物はすでに多様化している。主にアニメや漫画など のサブカルチャー、趣味に没頭する人の一つの類型またはその個人を示す言葉であるが、 具体的にいえば「こだわりがある対象を持ち」、「その対象に対して時間やお金を極端なほ ど集中的に消費しつつ」、「深い造詣と創造力を持ち、かつ情報発信活動や創作活動なども 行っている人々」として定義できる。 - 独自の変化を遂げる秋葉原
- 秋葉原電気街の形成
- 1945 年(昭和 20 年)8 月 15 日の終戦の時点では、東京は焼け野原であった。秋葉原電気 街の形成には、二つの大きな要因があった
- 一つは終戦直後、近くに位置する電気工業専
門学校(現東京電機大学)の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売が大盛況とな
り、駿河台、小川町界隈の闇市などに徐々にラジオ部品を供給する電器関係の露天商が集
中し始めたことがある。
ところが 1949 年に、当時日本を占拠していた GHQ が道路の拡幅整 理のために露店撤廃令を施行したことで、この闇市は危機に陥る。この GHQ の政策に対し て露天商が陳情した結果、東京都と国鉄が秋葉原駅のガード下に代替地を提供するという 措置が 1951 年(昭和 26 年)の露店整理令によってとられる。そして露天商がそこへ収容さ れたことが秋葉原電気街形成の始まりといわれている。これによって後のラジオセンター やラジオデパートを成す駅周辺の高密度な部品商区画が発生し、電気街の原形が形成され たのである。 - 戦前から店を構えていた広瀬商会が総合問屋として地 方にネットワークを持っており、遠方から仕入れの目的で小売業者や二次卸し店が多く訪 れたことである。その結果、秋葉原は安いという評判が広まり、国鉄だけでなく、当時庶 民の大事な足であった都電を利用するにも便のいい交通の結節点ということもあって、一 般客も集まるようになっていったのである
- こうして秋葉原は、1970 年 代には全国の家電市場の実に一割を一平方キロメートルに満たない領域で担う、日本一の 電気街に成長するに至った。
- 秋葉原家電市場の衰退
秋葉原は 1980 年代までは若い夫婦が生活水準の上昇 気分に心躍らせながら、小さな子供たちを引き連れて、新しい冷蔵庫やビデオカメラを買 いに行くような場所であり、客層の中心は多くの家族連れであった。
自動車の普及、宅配便などの物流システムが急成長したことも秋葉原の家電市場には悪 影響となった。家電製品の価格帯が下がるに従って、わざわざ秋葉原まで家族で出向くよ りも近郊のローサイドの量販店に買い物に行くことを、東京近県のベッドタウンに住む 人々は選び出したのである。 - マルチメディアの街へ
家電市場を奪われた秋葉原の電器店は、主力商品をパソコンに移していくことになる。
秋葉原の他の大型店もこぞってチェーン店を専門分化させ た。ソフマップが 1993 年 6 月に初めて中央通りに面したショップ、総合アミューズメント 館を出店したことで、現在のマルチメディア街に変貌する新しい波が起きた。1995 年 11 月の「Windows95」の発売日のお祭り騒ぎも、マルチメディア最先端の街として大きな変化 を起こす契機になった。これにともなって秋葉原を訪れる客層も、家電を買いに来る家族 連れから、専門的商品を求める若い男性のパソコンマニアへと、著しく偏ることになった のである。この客層の変化は、特殊な性格を帯びていた。それは単なる年齢層の狭まりや,男女構成の変化だけではなかったからである - オタク文化の街へ
このエヴァンゲリオンブームが、海洋堂に代表されるようなガレージキット専門店や同 人誌の専門店の進出に必要な体力と勢いをもたらし、秋葉原の一等地へと出店させたのだ。 そして恩恵にあずかった業種の進出店が予想を超える売上をたたき出すのを見て、雪崩を 打ったように同業の専門店が競って秋葉原へ進出を始めた
こうして 1997 年以降、秋葉原は急速に電気街から日本一のオタクのメッカへと変貌す るのである。 - それがなぜ続々と秋葉原に移転し、あれほどヒットしたのか。その答えがもっとも肝
心な秋葉原のオタク街化の中心的な仕組みとなっている
それは、他の場所にない著しい人格の偏在が秋葉原に起こっていたからだ。パソコンを 好むマニアの集中によって発生した人格的な偏りである。パソコンを好む人は、アニメの 絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメや、ゲーム、 ガレージキットも愛好する傾向があり、オタク趣味の構造を持っている - 進化する街
集まる人々のオタク趣味の構造から、秋葉原はオタク街化してきた。そのような中で、 秋葉原をメジャーにさせるブームが起きた。それが「電車男」ブームである
また 2005 年には「つくばエクスプレス」が開業し、交通的にも便利になり、秋葉原駅東 口には「ヨドバシカメラ・マルチメディア Akiba」が作られた。さらに 2006 年には、電気 街北口の駐車場跡に、さまざまな領域(フィールド)の人々と、様々な領域の情報が集い、 そして交流(クロス)することによって、IT を活用した次世代の新しいビジネスを創造する ことをコンセプトとした「秋葉原クロスフィールド」が完成した。 - 広まるオタク文化
- 「萌え」とは
その歴史の中で生まれたキャラクターへの愛情を表現する言葉が「萌え」である。旧来 の語意通りの、草木が芽吹く様ではなく、この萌えるという言葉に加えられた新たな語意 が、趣味嗜好の問題を指し示している。その語意とは、特定のキャラクターやキャラクターを構成する特定の部分的要素に惹かれ、好みに感じることである。入れ込んでハートが 熱く燃えているようなイメージが、そこにはかけ合わされている。その起源は、アニメ、 コミック、声優など複数の説があり、1993 年から 1994 年頃にわざと漢字の誤変換を残し た言葉遊びを好んでいたパソコン通信ユーザーの間で広まったのがきっかけといわれてい る。 - キャラクターライセンス市場の拡大
『デジタルコンテンツ白書 2006』によると、日本の 2003 年のコンテンツ産業の総売上 額は 12 兆 7906 億円となり、これは第一次産業、農林水産品の総生産額約 10 兆円を上回っ ている
そして、その中でもキャラクターライセンス商品の市場は推計、2 兆 0837 億円と なっている。 - 市場が拡大されたのか、それにはエヴァンゲリオンブームによりアニメへの投資が 増えていることも大きい。
- そして最も大きな理由として日本のインターネットの普及が挙げられる。インターネッ トの普及によってオタクの存在や活動が顕在化され後押しされたのである
- コミックマーケット
日本全国からオタクが集まるイベントがある。それが世界最大規模の同人誌展示即売会、 「コミックマーケット」である。通称「コミケ」とも呼ばれる
それ が 21 世紀の現在(2004 年 8 月開催、コミックマーケット 66)では、有明にある東京国際展 示場に 3 万 5000 サークル、51 万人もの人々を毎回 3 日間(通常、毎年 8 月と 12 月の 2 回 行われる)で集め、経済活動としても一日に概算 20 億円もの金額が動く市場に成長した。
そしてコミケのさらなる重要な特徴はオールジャンルのイベントであるということ だ。ジャンルの規制がなく、漫画や小説などのオリジナル創作物や、商業作品のパロディ、 成人向け同人誌、鉄道、カメラなどの伝統的なマニア分野の同人誌から各領域の評論系同 人誌、グッズ販売、そしてコスプレまでが一堂に会するのである - コスプレから世界へ
コスプレとは、漫画やアニメなどに登場するキャラクターの衣装や容姿を真似て、その キャラクターになりきる「コスチューム・プレイ」の略である。
日本で初めて生まれたメイ ド喫茶は、コスプレ衣装の販売で知られるコスパを母体として 2001 年 3 月に開店した「Cure Maid Cafe」であった
店員がメイドの扮装をするメイドビジネスの店は、2005 年 7 月には秋葉原 周辺に約 20 店にも及び、さらに全国にも拡大されつつある。また 2005 年 5 月にニューヨ ークタイムズに紹介されるなど、世界的にも知られるようになった。 - 結論
覺得這篇文章想要討論什麼?
主要是討論秋葉原的歷史,順便簡介御宅族跟相關的內容
我覺得這篇文章有哪些重點?或是我的心得?
我是覺得他把御宅文化相關的點都大概簡介了一下,滿全面的。
我是覺得他把御宅文化相關的點都大概簡介了一下,滿全面的。

沒有留言:
張貼留言