2020年11月8日 星期日

〈おたくをめぐる言説の構成 ――1983年~2005年サブカルチャー史――相田美穂〉

  1. はじめに
    1. おたく
      一定とは多くの場合,何かしらのおびただしい情報や物品を収集・ 所有・蓄積している人びとや,それらの行為そのものを意味するだろう。 本稿で言及する「おたく」という言葉は,その意味での「おたく」である
    2. 実態としてのおたく
      本稿では「実態としてのおたく」という語を,「おたく」と呼 ばれる文化や具体的な活動を指すものとして使用する
    3. 本稿が分析の対象とするのは,「実態としてのおたく」 ではなく,言説としての「おたく」=「おたく論」である
  2. 「おたく」というカテゴリーの誕生
    1. 「おたく」が熱中する文化と熱中の方向性に着目してみる。そこに は,その分野においての非当事者からみた場合,ある種の理解しがたさが つきまとう。
    2. 中森が「おたく」を外見的に特徴づけた要素を見よう
      まず,「おたく」が身につけている物である。それは,その時々で“魅力 的である”と認識されているものとはほど遠い。加えて,服飾以前の肉体 的魅力に欠ける存在として,中森は「おたく」を描写した。
    3. 「おたく」の性質・性格である
      「休み時間なんかも教室の中に閉じこもって,日陰でうじうじと将棋なん かに打ち興じてたりする奴ら」や「イワシ目の愚者になっちゃうおどおど した態度」という内向性によって特徴づけられる「おたく」の人物像を, 中森は提示した。
  3. 人格の問題としてのおたく
    1. M事件
      連続幼女誘拐殺人事件をめぐる一連の動きは,「おたく」というカテゴ リーに対して,以下の影響をもたらした。
      まず,「実態としてのおたく」は不問にされたまま,「おたく」は凶悪な 犯罪者のイメージと結びつけられた。そして,「おたく」というカテゴリー を社会問題化する言説によって「おたく」という言葉が一般化した。  
      そして「おたく」論は,この年に登場する
    2. 「アンバランスなスペシャリスト」
      85年の調査をふまえて宮台が91年に発表した論考では,「おたく」という カテゴリーが「~スペシャリスト」と結びつけられている。それは,同一 のクラスターに属する人びと以外からは,受容されがたい人物像でもある

      宮台による「おたく」論の焦点は,一定の文化類型と人 格類型の結びつきという考察にある。しかし,コミュニケーションの手が かり不足を「アンバランスなスペシャリスト」よりも深刻に抱えていると 思われる「ネクラ的ラガード」というクラスターの位置づけに宮台は触れ ていない。つまり,「オタク差別」において差別されているのが「おたく」 の人格類型であり,人格類型と文化類型は重なっているという宮台の論で は,より顕著に「おたく」の特徴を言い表していると思われる「ネクラ的 ラガード」のあり方が捉えられない。
      宮台の論は,「おたく」が文化類型により,一定の人格類型をもつとは言 い難いことを隠蔽しつつ,「おたく」を人格の問題として捉えようとする 態度を示唆していると言えよう。
    3. アイデンティティ形成におけるねじれ
      大澤による「おたく」論に言及する前に,大澤が消極的にせよ支持して いる「虚構と現実の区別がつかない」という言説について検討しておく。
      1. リアルとリアリティに
        リアルとは簡単にいえば「現実」を指す。リアリティとは,「現実らし さ」を現す。わたしたちはリアルを生きていると考えがちである。しかし, 同じ場所で同じ経験をしている者が,別個のリアリティを感じているとす れば,わたしたちがリアルだと認識しているものは,自分自身で意味づけ を行った結果立ち現れるひとつの認識である。それは,リアルではなく, リアリティと呼ばれるべきものである。
      2. Mの部屋もまた,まぎれもない現実として報道されたにもかかわ らず,その部屋にリアルを感じられなかった人びとが,Mを「虚構と現実 の区別がつかない」と評し,その言説にリアリティを感じたのだろうから。
      3. 大澤は,「おたく」を自己同一性(セルフアイデンティティ)の問 題として解く立場を取る。大澤によれば,「オタクにとっては,無意味な (ように見える)日常的な仕事とアニメなどへの没入の価値付けがまった く逆転している」からである。
        1. 自己同一性
          私が何者であるかということが,私自身によって決定可能 だということ,また,私が従うべき(広義の)規範が,(私自身にとって) 決定されている。
          1. 第一に,自己の模倣の対象になる他者=自己にとって好ましく,しかも 自分がそのようになれる他者が必要である。これを大澤は,「内在的な他者」 と名づけている。
          2. 第二に,「内在的な他者」の理想性を決定づける他者=「内在的な他者」 が理想的か否かを判断する規範を与える他者,つまり,大澤のいう「超越 的な他者」または「第三者の審級」が同時に要求される。
          3. この二種類の他者に同一化することで,自己同一性は構成されると,大 澤はいう。
            大澤は,「オタクにおいては,自己同一性(セルフアイデンティティ)を 規定する二種類の他者,すなわち超越的な他者(第三者の審級)と内在的な他者とが,極度に近接している」とする
    4. 社会化されない存在
      1. 浅羽は,Mが逮捕されたその年に,「おたく」論を発表している。
        その主張は以下の4点に集約される。
        1. おたくはアイデンティティの問題である。
          1. 浅羽は,おたくを,原「おたく」と二次的「おたく」に分類する。浅羽 の言う二次的「おたく」とは,初期の「おたく」(=原おたく)たちが商 品化した情報を享受するのみの「受動的なマニア」である。
        2. おたくは社会化されていない者である。
          1. 男性は就職により社会化の機会を得られやすい。同時に,社会 化した「おたく」は脱「おたく」していく。一方,女性「おたく」は就職 や結婚を経ても「おたく」的活動や人間関係を続ける。女性に限らず,職 場にアイデンティティを見つけられない者は,いつまでも「おたく」を続 けるしかない。それは「おたく」のアイデンティティの拠り所が「おたく」 的活動の他に見い出せないためであると,浅羽は分析している。
        3. 原「おたく」の発生は70年代である。
          初期の「おたく」たちが二十代となってクリエイター,プラン ナー,エディターとして,メディアの送り手の側に進出していった。これによ り,従来,「おたく」たちが同人誌などでサブカルチャーをベースに展開してき た活動,パロディや用語辞典や資料インデックスなどが,それ自体,雑誌や ムックの記事として商品化されるようになる。
          そしてその完成品を享受する膨大な二次的「おたく」が生じる。

          クリエイティビティのより低い若者たちのほうへ飛躍的に広がった裾野とも いうべき二次的「おたく」は,自ら主体的に情報の収集や整理や読み換えを試 行錯誤してゆくプロセスが弱いぶん,原「おたく」よりも知的クリエイティブ の能力の訓練に欠け,絶え間ない情報をただ享受するのみの受動的マニアへと レベルダウンする
        4. 3.の原因は世界が有機的リアリティを単なる情報と化したことに求め られる
      2. 浅羽が描いた「おたく」像をまとめよう。
        1. 第一には,「内向的」で「社会化」されない存在である。
        2. 第二には,マニ アックな知識を共有することによる同類意識の獲得から自己のアイデンティ ティを見出している
          かつ,その知識は一般には価値を認めらない種類の ものである
    5. 「コミュニケーション不全症候群」
      中島は,現代人のコミュニケーションの特徴を挙げ,「コミュニケーショ ン不全症候群」と名づける。
      1. それは端的にいうと,  
        1. 他人のことが考えられない,つまり想像力の欠如。
        2. 知合いになるとそれがまったく変ってしまう。つまり自分の視野に入っ てくる人間しか「人間」として認められない。 
        3. さまざまな不適応の形があるが,基本的にはそれはすべて人間関係に対 する適応過剰ないし適応不能(中略)として発現する。
      2. 中島に とって,コミュニケーション不全症候群は,「不適応という名の適応」である。
        そして,コミュニケーション不全症候群は,「ある とき一気に本来の不適応の形を噴出して,たとえば宮崎某の事件となり, あるいはもっと最終的な事件にこそならないが,そのかわり周囲の人間に とってはもっとも長続きする迷惑であるところのパラノイアとかおタクに なってゆく」
      3. 中島に特徴的なのは
        第一に,「おたく」とは現実から撤退し,居場所を 虚構の共有に求めたものであるということ。「人間関係よりも大切な関係性」 という一文は,その言い換えである。
        第二に,第一に挙げた特性はパーソ ナリティの問題であるということ。
        第三に,これらの特性は未成熟の証であり,成熟することが望ましい
      4. 中島が男性を「おたく」と定義し,女性に留保をつけたのは,性 別という指標を用いて,中島自身を「おたく」というカテゴリーの外側に 置こうする所作である。
    6. 「おたく」カテゴリーの齟齬
      ここまでの「おたく」論では主に,「おたく」とは,コミュニケーション や現実から撤退しているという主旨の言説をみてきた。その一方で,「お たく」は「ある特定の文化ではスペシャリスト」であるという認識も垣間 見える。それは,両立しないものではない
      1. 岡田の「おたく」論-「おたくが持つ三つの目」
        1. 「粋の目」は,「自分独自の視点で作品中に美を発見し,作者の成長を見 守り,楽しむ視点」
        2. 「匠の目」とは,「人の手によって順を追って作り上げられた作品を分解 して,その手法や工程,システムを読み取ろうとするエンジニアの目」
        3. 「通の目」は,あらゆるジャンルにおいて「人間ドラマ」を見つ けだし,「これを読み取り,楽しむ野次馬根性,ジャーナリスティックな視点」
        4. 「立派なオタク」
          立派なオタクはオタク知識をきちんと押さえていて,きちんと作品を鑑賞す る。当然これは,と目をかけているクリエイターの作品に関しては,お金を惜 しまない。逆に手を抜いた作品・職人に対しての評価は厳しい。これらの行動 は決して自分の為だけではない。クリエイターを育てるため,ひいてはオタク 文化全体に貢献するためでもある。そこのところをオタクたちは心得ている。
  4. おたく的消費社会論
    「おたく」はもはや特殊な存在として論じられるものでは なくなってきたといえる。高度消費社会への適応形態のひとつとして,「お たく」の消費行動が注目されることになったのである
    1. 物語消費論
      大塚は,人びとは物語りたいという欲求を持っていると主張する
      人びとはあらかじめ準備された物語の断片(=小さな物語)を収集し,それを積分して得られる大きな物語へとアクセスすることによっ て,物語りたいという欲求を満たす。
      1. 〈物語消費〉の特徴は,大塚自身のまとめによると,次の通りである。
        1. 〈物語ソフト〉ではなくモノないしはサービスが消費の直接あるいは見せか けの対象となる。
        2. そのモノ及びサービスは〈物語〉によって秩序づけられるかあるいは秩序づ けられるべく方向が与えられている
    2. データベース消費
       東は,現代社会を「大きな物語の失調」によって特徴づける。
      ここでいう「大きな物語の失調」とは,「伝統に支えられた「社会」 や「神」の大きさをうまく捉えることができ」ない状態を 指す。「おたく」における消費は,「大きな物語の失調」を,サブカル チャーで埋めることに向けられていると東は解く。
      1. 二次創作
        二次創作とは,「原作の設定をデータベースまで還元し,そこから任意に 抽出されたシミュラークルとして提示される作品」である。 二次創作はオリジナルではない,という意味でどれもが等価である
        作品という意味では,二次創作も原作と呼ばれるオリジナル も,等価なのである。オリジナルの背後=深層に「設定」が存在する。「設 定」からは原作としての物語も引き出せれば,二次創作も作れるといった 具合である。東は,この現象を二重構造として捉えていく。
        1. 二重構造は,表層と深層から成る。表層には,作品(=原作,二次創作) といったシミュラークルが宿る。深層には,あらゆるシミュラークル(= 作品)を読み込む元になる「設定」であるデータベースが存在する。
      2. 「萌え」
        「萌え」とは,物語を持た ないままのキャラクターが,消費する側の自由な思い入れに従って,単独 で消費されるときの根源となる振る舞い――あるいは欲望――である。
         「萌え」の対象は完成されたキャラクターに限らない。萌えは,キャラク ターを構成するパーツのひとつに向けられることもある。逆に,ある特定 のパーツを備えているという理由で,あるキャラクターに「萌え」ること もありうる。東は,「萌え」を喚起するパーツを「萌え要素」と呼んでいる。 萌えの対象はある程度の人気不人気はあるにしろ,原則的には無限である
      3. 東の言に従えば,データベースとシミュラークルの二層構造や,「大きな 物語の失調」に晒されているのは,なにも「おたく」に限らない。現代社 会に生きるわたしたち皆が,同じ状況にある。
        その状況下で何を消費するのか,何に対して欲望するのかについて,「おたく」は,より自覚的であるというのが,東の「おたく」論である。
  5. 流行文化としてのおたく論
    1. 秋葉原に見るおたく文化の隆盛
      八〇年代までは,秋葉原は家電が中心の街だったという。 しかし,家電製品の購買層は郊外店の台頭によって秋葉原から去っていく ことになる。そこで,秋葉原はパソコンを主力商品とした街に変わってい く。それが90年初頭のことである。「パソコンをマニアックに好むような人 たちという,人格的な偏り」は,秋葉原にパソコンだけ でなく,ガレージキットという「おたく」趣味の商品を呼び込んで来る。 この変化は,1997年以降に現れる。
      「秋葉原のオタクの街への変貌が,あくまで需要が先行した,大企業な どの介在に因らない自然発生的なものだということ」, これを森川は「個室空間の都市への延長」と捉える。
    2. おたく的ポップアーチストの出現
      村上隆は現代美術家である。したがって村上による「おたく」に関する 言説は,言葉を使用した批評よりも,その作品や活動によって現される。 村上は,「おたく」的な意匠を意図的に取り入れた作品を数多く製作して いる。

      岡田や東の言葉のとおりに,村上による一連の作品が「文脈を押さえて いない」「おたく的な意匠をおたく的たらしめるデータベースをもたない」 ならば,村上の作品は「おたく」文化とは無関連のはずである。しかし, 「おたく」文化を評価する立場にある岡田や東が,わざわざ,村上の作品 に言及する理由はどこにあるのだろうか。村上の作品が現代美術の分野で 高い評価を受けているという事実に注目したい

      村上の見たおたく文化は,誇張されたファンタジーの世界で,細部にまで正確 な技術,黙示録的イメージ,情報テクノロジーや画像テクノロジー,商業,そ して芸術の前衛が出会う世界でもあります。日本の戦後史における未 解決の矛盾が日本のポップ・カルチャーとおたくを取り巻くサブカルチャーの 爆発的なコンテクストとなっていると本展で村上は主張するのです。

      村上の作品が「おたく」文化と呼びうるか否かについて,岡田や東らは 懐疑的である。しかし,村上の作品に認められる「おたく」的な意匠は, かつてのようなマイナーなイメージではない。村上の登場によって,「おた く」文化は,ポップアートの一ジャンルとして,海外において高い評価を 受けているのである。
  6. むすびにかえて 
    「おたく」論は,初期には「おたく」の人格,つまり,人物としての「お たく」を論じてきた。次に,「おたく」に見られる消費の仕方に論点が移った。現在は,「おたく」が作ったモノが論じられている
    サブカルチャーが一般的に認知された文化となったとき,その後,その サブカルチャーがたどる道は二つある。ひとつは,忘れ去れた過去のもの になること。もうひとつは,サブカルチャーからメインカルチャーへと評 価が変化することである

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介紹了各種關於おたく的討論

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雖然有些不是很懂,但基本上是一個很不錯的地圖

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