- 代弁者
ここでいう代弁者としての言論の定義として本稿が着目するのは、
(1)誰かの代わりに何かを言うと いう形式をとり、
(2)その権利を持つのは当事者に近いものという性質を持ち、
(3)その際に代弁され ている集団の側こそが重要になるというものである。 - 問題設定
- 当事者としての代弁者
社会問題として 問題化する以上、当事者として問題を提起して もそのことが自己だけの問題に限られなくなる という点で、「当事者性」を経由した「代弁」 というものがありえるだろう。このように「当 事者」と「代弁」が結びつくこと自体はそう有 りえないことではない - オタク語りの「閉塞」
本稿ではむしろ、東が「閉塞」 と述べるような状況の中から、どのような言論 が展開されたのかを見ることに関心がある。つ まり、外在的な説明を与件としながら、それに 対し「当事者性」と「代弁者性」を短絡させ たような言論が、どのような文脈の下でなさ れていたのかを問いたいのである
本稿では、 1989 年以降にあらわれたこの特殊な言論の形 式を取扱い、その個々の場面でどのような達成がなされようとしているのかに着目する - 先行研究と分析視角
本稿ではオタクをめぐる内容の変遷で はなく、オタクを語る際に「どのような立場」 で「どのような資格によって」語ろうとするの かという観点に焦点を当てることになる。 - オタクをめぐる研究状況
- 宮台真司
宮台真司の議論では、オタクを「コギャル」「新 人類」と対置する形で議論し、その歴史的性質 が強調された - 大澤真幸
大澤は、彼 の理想の時代、虚構の時代、不可能性の時代と いう時代区分をめぐる議論の中で、虚構の時代 という時代類型の最も徴候的な人物像として オタクというカテゴリーを挙げている - 團康晃
團の議論 は本稿の重要な先行研究となる
しかし、團がいうような「ぼくら」として オタクというカテゴリーを大塚が運用したという議論には留保がいる。
本稿では、むしろ「代 弁者」というキーワードに定位しながら、どの ように「世代全般としての共感」と「オタクと いう集団との結びつけ」という一見矛盾する話 法が共存して展開されていったのかということ を見ていく。 - 本研究の分析視角
本稿は、1980 年代から 90 年代の批評的言 論を分析の俎上に載せる。その際に、本稿では 「当事者として代弁する」という実践に着目す ると述べてきた。 - 「代表者」ではなくて「代
弁者」という言葉を本稿で選択する
一般的に「代表者」という語は、 その分野にかかわる決定に携わり何らかの主張 を行う主体というイメージを想起させる。また、そこで「オタク」の何かを代表するという ときには、それは集団としての代表であり、「代表者」の側が何を主張するのかが重要になり、 その「代表者」の側の語りこそが意味を持つ。
それに対して「代弁者」の場合には、その代 弁される集団に焦点があたる。つまり、いかな る手続きを以て、誰の代弁をしようとするのか が問題となる。 - 1989 年以前の「神話」
こうした状況は 1989 年の宮崎事件を契機としてマスコミでの 「おたく」への言及が蓄積されるようになって 以降大きく変容する。それでは、外在的な「お たく」語りが蓄積されていくなかで、本稿が問 題化する「当事者として代弁する」言論はどの ように展開されたのか - 大塚英志の言論と拡張していくカテゴ リー
- 『オタクの本』と『M の世代』-反マスコミとは異なる話法
一般に、オタクをめぐる言論状況は、1989 年の宮崎事件以降変化したとされる。そうした 状況の中で重要な影響力を持った本として、そ の 1989 年に刊行された 2 冊の本がある。『別 冊宝島 おたくの本』と『M の世代』である
『おたくの本』が反マスメ ディアという話法をとりながらもマスメディア 的な論理と共振してしまっているように見える のに対し、『M の世代 』では、対談者の大塚 英志が「代弁者」というオタク語りの特異な話 法を用い、独自の達成を行ったことに着目す る。 - M の世代
ここでは、「代弁したところで何の意味もな いかもしれないが」「ぼくが生きてきた不毛と つながっているとわかった以上、そうする他に ないではないか」というように、まさに本稿が 問題としている当事者性と接続した奇妙な代弁 者性が表明されている。『M の世代』はこの「当 事者として代弁しなければならない」という感 覚を基点としている
『M の世代』において、大塚の力点が、「内 在的に/実存としてオタクを語る」ことにおか れていること、それによって M 君について「当 事者」として語る資格を確保されていること は、既に確認したとおりである。ただ、それが あくまで「代弁」にとどまるのは、ときによっ て M 君と自身との間に、微妙な差異が確認さ れているからである。「真のおたく」なるもの を想定し、「ふりをしている」「すがっている」 という表現によって、M 君との距離感を確認 している。ここで「真のおたく」とは一体どの ような存在なのかは重要ではない。むしろ、「真 のおたく」から M 君を距離化することの意味 を考える必要がある - 「ぼく」が語るべき物語-『コミュニ
ケーション不全症候群』をめぐって
中島梓の『コミュニケーション不全症候群』 は、高度消費社会の産物として、オタクを語る 枠組みを提示したという点で、ある意味では、 『おたくの本』以上に、決定的な影響力を持っ たと考えることができる - コミュニ ケーション不全症候群
中島は、現代の様々な社会 病理に通底するものの一つとして捉えている。 その最大の特徴として中島が上げるのが、「他 者への想像力の欠如」である。それは高度資本 主義社会への適応のための不適応であり、「過 剰適応」という性質をもつものであるという。 - 中島が捉
えた「おタク」の特性である
1)現実に うまくなじむことができず「代償」としてフ ィクションに自分の居場所をつくり出し、
2) 代償が提供されるために「一応の適応」をして いるが内面に「根源的な不適応」を秘めている ことをオタクの特性として診断を加えている - 著
者である中島がオタクに対してとった距離である
著者である中島とオタクとの距離につ いていえば、微妙な設定がなされている。『コ ミュニケーション不全症候群』というテクスト は全体としては、当事者性を強く前提とした議 論と評価できる。「オタク」とともに症例とし て取りあげられている「ダイエット症候群」や 「JUNE 症候群」については、女性である中島 自身の当事者性と連続するものとして捉えられ ており、そこでは自身も当事者と成りえた可能 性が想定されている。しかしながら、ことオタ クに限っていえば、「これらの青年」「一見単な る若者」という形で、距離を置いた記述に終始 するのである - 更新される代弁とイメージの拡散―竹熊健太郎『私とハルマゲドン』
竹熊のオタク論はオウム事件を受けて展開されたものである
竹熊のオタク論が展開される『私とハルマゲ ドン』は、自己の個人史を振り返りながら、そ こで出会った「オタク的な」人たちと自分との 影響関係を説明していく - 竹熊の
言論で重要なのは、彼がオウム真理教とどこま
で距離をとれているかという問題や、彼の言論
が一貫しているかどうかということではない。
むしろ、オウム真理教と距離を取ろうとしつつ
行う彼の個人史の披露の仕方が、その都度の「オタク的な誰か」を媒介することなしには語られ
ず、そしてその「オタク的な誰か」とオウムと
自己との三者の距離感が測定され直しているこ
とが重要である
その都度のオタクのイメージ はその代弁する側の属性によって変化してい く。そして、その結果オタクをめぐる多様なオ タク像が産出されつつ、それがしばしば「いじ められっ子」「インテリ」「大人になれない子供」 等のイメージがしやすい具体的なカテゴリーと 結び付けられ、「国鉄鉄民」や X 等の具体的な 人物の表象とも接続する。そして、オタクはこ こでは、「オウム的なものの処方箋」としても、 「オウム的なものとの同根性」としても語られ ることが可能になっているのである - これまでの議論と今後の課題
本稿では、オタクをめぐる語りの中に、外在 的で他者化を志向する語りが先行して存在する ことを与件とした上で、それに対立する自らを 内在的・実存的なものと位置づける語りが間歇 的に存在してきたことに着目した
オタクをめぐるある種の批評的言論が いかに特異な形式を獲得し、その特異な形式に よって何が達成されるかはある程度明らかにで きたと考えられるが、この言論が実際にオタク をめぐる言論の中でどのような影響力を持ち、 どのような位置を獲得したかは別稿を立てて議 論がなされるべき課題である
覺得這篇文章想要討論什麼?
這一篇試著用一個"代弁者"的概念為主軸,去串起那些談論OTAKU內容,釐清他們如何在言論中保持與OTAKU的距離以及以怎樣的背景擔任代弁者
我覺得這篇文章有哪些重點?或是我的心得?
顯然,這一篇有一些前提的社會學概念是我要補充的,不然真的不是很懂
顯然,這一篇有一些前提的社會學概念是我要補充的,不然真的不是很懂
沒有留言:
張貼留言